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12ステップ 第6講

御言葉:ヨハネの福音書3:1−16



人は、新しく生まれなければ…


「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)


nico


 心理学者のウイリアム・ジェムズは、「一度しか生まれたことのない人は二度死ぬ。しかし、二度生まれた人は一度しか死なない。」 と言います。この二度生まれるというのは、この世に命を受ける誕生ときょう学ぼうとしている新しい誕生のことです。イエス様はユダヤ人 の指導者であるニコデモに人にとって、なぜ新しく生まれることがたいせつなことなのか、そして、どうやって新しく生まれることができるのかを教えてくださったのです。 本文の御言葉を通して、あなたが新しく生まれることの大切さを悟ることができますようにお祈りいたします。


T.新しく生まれることの必要性(1‐3)


 1節をご覧下さい。ニコデモはどんな人だったのでしょう。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」 彼はパリサイ人でした。パリサイ人はユダヤ教の中で正統的な信仰を持っており、旧約聖書の権威を信じ、それを実践する人々で した。当時正式に登録されたパリサイ人は600人くらいいたそうですが、その多くは人々からの尊敬を受けていました。ニコデモは、こうした パリサイ人の一人でした。それだけではなく、彼はユダヤ人の指導者でした。それは彼がユダヤ議会の議員であったことを表わ しています。ユダヤ人議会というのは、ユダヤ人の政治的議会であっただけでなく、ユダヤ教の最高の宗教議会でもありました。この 議会の議員は全国から選ばれた70人の祭司、長老、学者で構成されていました。また、10節を見ると、ニコデモはイスラエルの先生 でした。彼は当時最高の学問であった天文学や哲学、歴史などについても多くの知識を持っている人でした。また彼は金持ちでし た(19:39)。彼は名誉と権力、富など全てのものを所有するかのような人でした。彼の名前ニコデモ は、「民の征服者」という意味です。

 この世で全てを所有するように見えた彼…、誰が、彼の心の中が、実は夜の暗闇のようであったことに気が付いたでしょうか。 ある日、彼は、夜、イエス様のもとに来ました。有名人の彼がガリラヤ田舎出身の無名の若いイエス様のもとに来たのです。 どうしても解決できない切実な問題を抱えて、最後にイエスさまのもとに、人目を避けて訪ねて来たのです。 2節をご覧下さい。ニコデモはイエス様に言いました。「先生。私たちは、 あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるし は、だれも行なうことができません。」彼は若いイエス様を「先生」と呼びました。彼はイエス様に何を求めたのでしょうか。 彼は、何に渇いていたのでしょうか…。

 イエス様は、ニコデモに答えて言われました。3節をご覧下さい。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく 生まれなければ、神の国を見ることはできません。」イエス様はニコデモの根本的な問題が新しく生まれてないことを指し示しました。 彼は高い地位と名誉と多くの財産を持っていましたが、新しく生まれていなかったのです。 彼は一所懸命に律法を守りました。律法で自分を縛り付け、自分の力で清く正しい人間になろうと努力したのです。しかし、 彼は疲れていました。彼は渇いていました。彼の心の中には安らぎがありませんでした。自由がありませんでした。本当の喜びが ありませんでした。それは、彼の心には神の国がなかったからでした。彼は、目に見える世界を超えて心の中に広がってゆく神の国を 知らなかったのです。

 新しく生まれなければ神の国を見ることができません。肉的に生まれていても、霊的な目が開かれていなければ、神の国を見ることができないのです。 新しく生まれていないならば、その人は盲人のようです。闇の中を歩み続けます。 いくら学問を積んで、この世の知識を広げたとしても、新しく生まれていなければ神の国を知ることはできないのです。 国家議員になっても新しく生まれなければ神の国を見ることができません。多くの修行を積んでも新しく 生まれなければ神の国に入ることができません。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。


U.新しく生まれるとは(4-8)


 ニコデモは、「新しく生まれなければならない」という言葉をどのように理解しましたか。4節をご覧下さい。ニコデモは言いました。 「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれる ことができましょうか。」ニコデモは「新しく生まれる」という言葉を聞いた時、肉体の 誕生しか考えることができませんでした。長い間、見える世界にとらわれて生きてきた彼にとって、イエス様の言葉は 理解に苦しむものだったことでしょう。また、今まで積み上げてきたものへの執着心を捨てて新しく生まれることは、彼にとって 考えられないことだったことでしょう。 しかし、イエス様は新しく生まれることについて5節のように言われました。「まことに、まことに、 あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」 バプテスマのヨハネは悔い改めのしるしとして人々に水のバプテスマを授けました。ペテロは私達が新しく生まれたのは、生ける、 いつまでも変わることのない、神のことばによるのであり、これは福音のことばであると言いました(Tペテロ1:23、25)。 ですから水によって生まれるとは、福音を聞いて神様にたちかえり、そして、この世のことに縛られる心から自由になることなのです。 そのとき、神様は、その人に聖霊を注いで下さいます。聖霊は人を導きます。 自分にとどまるのではなく、神様のもとへと出て行くように人を導いてくださるのです。それでパウロは「神は、私たちが行なった義の わざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」 と言いました(テトス3:5)。

 「新しく生まれる」これは、「上から生まれる」という意味でもあります。「上から」とは「天から」という意味であり、 これは神様による誕生を意味します。すなわち、神様の子供として新しく生まれることです。神様の子供となるのは、 血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれることです。それは神様の主権と 一方的な恵みによってのみ可能である新しい創造です。人は生まれる時、赤ちゃんとして生まれます。大人として生まれる人は 誰もいません。赤ちゃんは病気に弱いです。一年が過ぎるとやっとよちよちと歩けるようになります。このように新しく生まれた人も 同じです。新しく生まれたばかりの時には弱くてよく病気にかかります。 しかし、私たちが、この新しい命を信じて大切にするなら、私たちは成長していくことができるのです。 そして、この生命はなくなりません。なぜなら私達のうちに生まれたいのちは死者の中からよみがえられた イエス・キリストによる永遠のいのちだからです。新しく生まれることはイエス・キリストによる罪の贖いを信じる ことによって私達のうちに永遠のいのちの種が蒔かれることです。この種は段々成長し、時になると実がなります。 この新しいいのちは段々成長して、私たちの心に愛、喜び、平安などを与えてくれるようになります。私たちの 人生に大きな目的を示してくださいます。

 イエス様が「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができない」と言われるとニコデモは不思議に 思いました。6,7節をご覧下さい。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく 生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」肉によって生まれた者は母から生まれた 人間です。ところが、肉によって生まれた者は神の国に入ることができません。肉によって生まれた人は肉に過ぎない存在であり、 その人は霊的な世界を知ることができません。ニコデモは立派な人でした。彼は学問的にも優れていました。しかし、 イエス様がご覧になると、彼は新しく生まれてない肉的な存在でした。彼が神の国に入るためには御霊によって 新しく生まれることが必要だったのです。人は、新しく生まれて初めて、神様と交わり、神様の御声を聞くことができるようになるのです。

 イエス様は続けてニコデモに聖霊の働きを説明してくださいました。8節をご覧下さい。 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。 御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」風は聖霊と語源が同じです。風と聖霊は多くの共通点を持っています。 風は思いのまま吹きます。風は吹いていても、それを目で見ることはできませんし、どこから吹き始めて、どこへ吹いて行くのか わかりません。ただその結果や現象としての音を聞くことができ、雲や煙がたなびくのを見ることはできます。それと同じように、 御霊の働きも肉の目で見ることはできません。しかし、御霊が新しく生まれさせてくださると、その人の人生は変えられるのです。 聖霊は目に見えませんが、人は、その実を知ることができます。新しく生まれた人は聖霊の 実を結びます(ガラテヤ5:22)。聖霊は、新しく生まれた人に、この世を超えたところから注がれ、 そして、その人を新しく変えてゆくのです。 聖霊によって、人を憎むだけだった人が、人を赦し愛する喜びを知るようになります。 朽ちる世のものに望みを置いていた人が生ける永遠の望みを持つようになります。 聖霊によって人生の目的と方向が変わります。新しく生まれるとすべてが 新しくなります。水と御霊によって生まれる人は今、この世にいるときも神の国を得るのです。 そして、いつか、この世を離れて、この神の国に入るようになります。あなたが水と 御霊によって新しく生まれ、このような祝福の人生を送ることができるように祈ります。


V.新しく生まれる方法(9-15)


 ニコデモは、イエス様の御言葉を聞いてどんな感想をもちましたか。9節をご覧下さい。ニコデモは答えて言いました。 「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」ニコデモはイスラエルの教師として聖書を良く知っている人でした。 ですから、イエス様の言葉を受け入れることができたはずでした。しかし、彼はイエス様の言葉を受け入れませんでした。 それを受け入れることは今までの自分の生き方を否定することだったからです。 彼は自分を信じていました。自分で理解したことや自分で体験したことしか受け入れることができませんでした。 神からの啓示である旧約聖書を信じていたはずの、イスラエルの宗教指導者たちも結局は自分を頼りにし、 人の知恵を頼りにしていたのです。イエス様はこのような彼に言われました。 10節をご覧下さい。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」

 それでは新しく生まれるために、私たちに必要なことは何ですか。14節をご覧下さい。 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」イエス様は、イスラエルの民が昔、 経験した出来事を通してニコデモに、新しく生まれるために、人に必要なことを教えてくださいました。 イスラエル人が神様の力強い御手に頼ってエジプトを脱出し、約束の地カナンに向かって荒野の旅を続けていた時のことでした。 主は彼らが生きていくのに必要なパンや水を何回も奇蹟として与えてくださいました。このようにして彼らは 荒野の旅を続けていくことができたのです。ところが、この荒野の旅の終わりごろになって、またイスラエル人は 神様の恵みを忘れて神様とモーセに対してつぶやき始めました。「なぜ、あなたがたは私達をエジプトから連れ上って、 この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私達はこのみじめな食物に飽き飽きした。」(民21:5)。 そのとき、彼らのもとには毒蛇が送られたのです。つぶやいた者たちはその毒蛇にかまれ、次々と死んでゆきました。 神様から離れた者たちは死を見るようになったのです。肉的な死、そして何よりも、霊的な死を見るようになったのです。 そして、この苦しみの中からイスラエル人は自分達の罪を悔い、モーセにとりなしの祈りを頼みました。 モーセが祈ったとき、神様は、青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に つけるようにと言われました。そして、「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。モーセは主が 仰せられたとおりに青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけました。毒蛇はなおも猛威を振るっていたことでしょう。 どの天幕の中へもその毒蛇は入り込み、神様から離れた者たちにかみつきました。そしてその猛毒のために苦しみ、死につつある 人々が一杯いました。その時です。一つの喜びの知らせがあったのです。「すべてかまれた者は、旗ざおの上につけられた 青銅の蛇を仰ぎ見れば、生きる」という知らせです。それを聞いた人々の反応は必ずしも同じではなかったでしょう。 ある人は考えました。「旗ざおの上につけられた青銅の蛇を見ることによって救われるんだと。とんでもない。 そんなことを誰が信じるか。そんな知らせは理解できない。だから私は見ない。」 そして蛇にかまれた人は一所懸命に傷口を開けて口で毒を吸い取ろうとしました。 青銅の蛇を仰ぎ見ることは馬鹿げたことであり、理性をもった人間としてふさわしくないことだと思ったからです。 その結果どうなったのでしょうか。神様が示された救いの方法を疑って仰ぎ見ない人はそのままみな死んでしまいました。 しかし、苦しみの中、わらにもすがるような思いで、天幕から這い出し、旗ざおの見える所まで来て、 その上につけられていた青銅の蛇を仰ぎ見た人は救われたのです。

 この出来事は、人々の咎と罪を背負って十字架につけられたイエス様の雛型だったと言ってもよいでしょう。 三日目によみがえられ、天に上られたイエス様の雛型と言ってもよいでしょう。 イエス様は、なぜ天に上げられたのでしょうか。15節をご覧下さい。 「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」そうです。誰でもイエス様が自分の罪のために 苦しみを受けられ、死なれたことを信じる人は救われます。神様は約束の通りに永遠のいのちを与えてくださいます。 まるで毒蛇にかまれて死んで行く人が青銅の蛇を仰ぎ見た時、命を得たように…。 これは神様に属するというのは、こういうことなのです。 人間の罪は毒蛇の毒のように人を死へと追いやります。罪の報酬は死です。この世には数多くの毒蛇が存在します。人々は高慢の蛇、 情欲の蛇、ねたみの蛇、不信仰の蛇にかまれて死んでいます。いくら努力しても、そこから自由になることはできないのです。 罪の中に死に、神様の裁きを受けるしかありません。イエス様はこのような人々の罪のために十字架に上げられました。 誰でもこの十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る人は、罪から救われるのです。十字架のキリストを信じる人は、 誰であっても、救われ、永遠のいのちが与えられ、神の国に入ることができるのです。16節をご一緒に読んで見ましょう。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである。」これが福音です。私達の罪のために十字架につけられ、私達に永遠のいのちを与えて くださった主イエス・キリストの愛に感謝します。