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Q.キリスト教って独善的じゃない?

 ヨハネの福音書14章6節:わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。…なんで、こんなに独善的、排他的なことを言うのかな…。

A.独善的ということを考えてみましょう

 「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とは誰に向かって語られた言葉でしょうか。これは目の前にいる、あなたのために語られた言葉なのです。どこかの誰かに語られたものではありません。ですが、「あなたを愛しています。」と言う言葉は、あなたが、その言葉を信じたとき、はじめて真実となるのです。あなたが信じなければ、その愛は一方的、片思いに終わるのです。愛は1対1なのです。だから、第三者が割り込んで「この二人の愛は本物だ。」とか、「ニセモノだ。」などと判断できるものではないし、すべきでもありません。あなた自身が信じることは、あなた自身しか分からないのですから。

 例えば、こういう喩えを考えてみてください。あなたが誰か一人の愛する人と結婚するとします。それはあなたにとって、唯一の結婚であるべきです。愛する人は一人だけです。その愛が本物であるならば、あなたは思うでしょう。「私は、この出会いによって本当の愛を知った。この愛こそ本物だ。他にはない。」と…。

 イエスが「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われた言葉も、そういうことなのではないでしょうか。私たちは、何を愛しても永遠の幸せを得ることができる訳ではありません。愛する相手が、本当に自分の真心と愛を捧げるのにふさわしいものなのかを、正しく見極めるべきなのです。自分の愛を本当に受け止めてくれるものなのかを見極めるべきだということです。『鰯の頭も信心から。』などと言いますが、鰯の頭をいくら愛したところで虚しいものではないでしょうか?そして、場合によっては、その信頼が命取りになるようなことさえあるのです。

 ですが、イエスの愛を信じる人に対してイエスは言われました。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と…。イエスは決して「わたしは、あなたの信頼にこたえられるかどうか分からない。本当の愛は、他の誰かのところにあるかも知れない。」などとは言われませんでした。イエスの言葉が独善的だというならば、それは仕方のないことかもしれません。ですが、本当の愛とはそういうものなのではないでしょうか。イエスの言葉を信じるならば、もう、どこに本当の愛があるのか迷わなくてもよいのです。