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Q.罪を用意する神様なんて?

 神様って、全知全能だから、人間が『善悪の知識の木からとって食べる』ことを知ってたんだよね。それなのにエデンの園に善悪の知識の木を置いたのっておかしくない?人間が罪を犯すような罠を、わざと作って…。こんなの茶番じゃないの?ノアの洪水の話だってそうだよね。始めから人を正しい道へと導いてくれれば良いのに…。

A.愛を与えるための道なのです

 神様とはどんな方でしょうか?何だかわからない漠然とした『神』を信じるのではないのです。聖書は何と言っていますか?そうです『神は愛』です。では、愛とは何ですか?なぜ人は、愛を知ることができるのでしょうか?例えば、神様が、全ての人間を、愛し合うことしかできないようにプログラムしたとしてみましょう。誰もが、お互いを愛することしか知らないロボットのように…。これって理想的でしょうか?何か気持ち悪くありませんか?きっと、『そんなの本当の愛じゃないよ!』って思った人がいるはずです。そう、これは本当の愛とは言えません。なぜなら、自らの意思で愛していると言えないからです。本当の愛とは、自分で決断して、相手のために自らを捧げることです。 愛とは主体的な行為です。愛とは自ら選び取ることです。

 神様が、エデンの園に善悪を知る木を置いたのは、人が自ら命の木を選ぶ自由を与えるためでした。初めから命の木しか置かなければ、確かに人は、善悪の木を選びようがありません。ですが、神様は善悪の木を置きました。それは、人が自ら真実を選ぶことを、期待していたからです。神様は、人が善悪の木から取って食べることを知っていました。しかし、同時に、取って食べないことも信じていたのです。…矛盾していますか?いいえ。そんなことはありません。神は人に、自分自身で、あらゆる可能性を選択する自由を与えたのです。

 だから、神様だけが知っていたのではありません。そう、人は知っていました…。もし、善悪の木を選べば、どうなるか…。なのに、人は何かを求めてさまよって行った。目の前の幸せに気がつかないまま。エデンの園でのアダムの生活は『幸せだった』という言葉が聖書にはありません。善悪の知識の木の実を食べて霊から肉へと転落した時、人は、真の幸福が何と価値あるものか、真の愛が何と尊いものなのかを悟るようになりました。そのことに自分で気がついて欲しいから、神様は、人が自らのもとを去って行くのを、そのままにしたのかもしれません。その証拠に、神様は救いの道を残されました。人が自分のもとを去って行っても、帰ってくるための道を残したのです。人がエデンにいられなくなった時、命の木への道を守りました。ノアの洪水の時、箱舟に乗るように呼びかけたのです。神様は、あなたを愛しているからこそ、あなたが自分自身で、その愛を選ぶ時を待っているのです。