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Q.聖書の創造論はつくり話でしょ?

 生命を創造主がつくったという創造論は、なんか科学的じゃない感じだし、無視してよいのではないでしょうか?

A.心をみる人は創造論に出会います

 あなたは、人間を肉体だけの存在とみなしますか?それとも心こそが人間を人間としているのだと思いますか? ヒトラー政権下のナチス・ドイツで多くのユダヤ人が虐殺されたことが知られています。しかし、それと同時に、障害者・孤児・にきびのあるドイツ人の子供たちも進化論上の不適格者とみなされ、20万人以上が殺害されたという事実をご存知でしょうか。 人間を「言葉を話せる」、「道具を使える」のように、その能力で定義しようとすれば優劣を付けざるを得ません。人を身体能力によって定義すれば、身体障害者は人間ではないという結論に結びつくことがお分かりになるでしょうか。 進化論は心を見ません。進化論は偶然の積み重ねの結果、宇宙・地球・生命が出現して現在に至ったというもので、そこには、神の愛も目的も計画も見出しません。

 私は、進化論を否定するために、このようなことを言うのではありません。 多様な学説の集合である進化論を一括りにして、創造論と対立させようなどと思いません。 そもそも、創造論とは進化論と対立するようなものではなく、霊的な教えです。人間にとって、より根源的なことを教えているのです。 こうした根源的な世界観を欠いた時、学問は恐ろしい価値観に利用されて行きます。 進化論にも、『この世にあるのは進化のための生存競争だけで、劣ったものは適者生存の原理における不適格者。』などとする思想につながってしまった歴史があります。 考えてみてください。人生は単なる競争のためにあるのでしょうか?それとも、人との競争などではかることのできない創造主の目的を実現してゆくためにあるのでしょうか? 人生は、自分を他人と比べて高ぶったり妬んだりするためにあるのでしょうか?それとも、この世に生きていられることの奇跡と創造主の愛を知って、 自分だけの創造的な人生を造るためにあるのでしょうか? この世には、創造論を否定しつつ、一方で「生きることは大切だ。目的をもって生きなさい」などと言われる人もいます。これが、どれほどの矛盾であるか、お分かりになるでしょうか?

 『人生、偶然で良い。絶対的な目的なんていらない。』と言われる人もいらっしゃるかもしれません。でも、考えてみてください。 『この世には絶対的な目的なんてない。神の目的なんてない。結局全ては偶然だ。』と考えれば、その考え自体もまた偶然の産物だと認めなければなりません。 つまりは、自分の主張によって自分の主張を否定する自己矛盾に陥るのです。 心をみる人は創造論を知ることができます。『すべての存在は創造主の目的の中で創造された。全ての存在は、望まれて、無から存在へと呼び出され、目的に向かって生きている。』と知ることができます。 聖書は人間の人間らしさの所以を「神が生命の息を吹き入れた」という創造神話で表します。人格の平等性や宇宙で唯一の貴重で重い存在としての個という理念は、こうした見方に深く根ざしています。 神様の働きは目にはみえません。しかし、私は目には見えない創造主の愛を信じています。 命とは、単なる目に見える偶然や進化で生まれたのではなく、目には見えない神の愛によって生み出されたものだと信じます。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。
――ヨハネの福音書3:8