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12ステップ 第12講

2000年サマーカンファレンス主題講義改定

御言葉:マルコの福音書 8:27-38


あなたは、キリストです。


「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』 ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」(29)




 A.D(Anno Domini)2000年です。イエス様が世に来られてから2000年が経ちました。 神様の約束された通りに、イエス様はこの世に遣わされました。それによってこの世に救いの道 が開きました。「イエス」という名前は『この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方』 を意味します(マタイ1:21)。今日の本文でイエス様は招きの言葉を話されます。『あなたがたは、 わたしをだれだと言いますか。』誰でも、その招きにこたえてイエス様をキリストと 告白するならその人はその信仰によって救われます。 なぜなら、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる(ローマ10:9,10)」からです。


T.「あなたは、キリストです。」(27-33)


 27節からみていきたいと思います。イエスの一行はピリポ・カイザリヤの村々に出かけました。ここは ヘロデ王の子、ビリポが皇帝アウグストに献上した地方です。ガリ ラヤ湖より北に位置し、ヘルモン山という山の近くの、日本でいえば、軽井沢のような避暑地でした。
 その途上で、イエス様は弟子たちに質問されました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」 弟子たちは答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、 また預言者のひとりだと言う人もいます」。預言者とは神のメッセージを民に伝える神の代弁者のことです。
 エリヤはアハブ王の時代の預言者です(T列王記17,18)。アハブは民を虐げ、民を生きる神様から離れさせ、い のちのない愚像を拝むようにさせました。エリヤはアハブ王の預言者850人と山で戦いました。それは人々を 、生きる真の神へと導くための霊的な戦いでした。 旧約聖書のマラキ書で、メシヤの先駆者としてエリヤが再び現れると預言されていました(マラキ4:5)。 また、バプテスマのヨハネは旧約聖書の時代の最後の預言者でした。 彼は荒野で「キリストがもうすぐ来られるから悔い改めなさい」と人々に訴えた人物であり、 うわさはユダヤ全国、エルサレム中に広まり、その全住民が彼に罪を告白して、ヨルダン川で バプテスマを受けました。
 イエスは当時人々から、この二人に匹敵する、大きな影響力のある預言者として尊敬を受けたのです。 今日の日本においても、「イエスは世界的な影響をもたらした人物だ」と言う人は大勢います。 それで、教養として聖書を学んでおこうとか、キリスト教について知っておきたいという声は数多く聞かれます。 皆さんの中にもこのように考えておられる方がいらっしゃるかもしれません。 しかし、その後、イエスは弟子たちに、どのように尋ねられたのでしょうか。29節をご覧ください。

「では、あなたがたは、わたしを誰だといいますか。」

 人々は私を預言者の再来だと言います。しかし、あなた方は、わたしを誰だと言うのか?と 質問されたのです。イエスは人の声ではない、あなた自身の声を聞こうとされました。ペテロは答えました。

「あなたは、キリストです」

 「キリスト」とは何でしょうか?「キリスト」とは「油を注がれた者」を意味します。神から聖なる油を注がれた王を意味します。 後には、「キリスト」とは、イスラエルを敵から救い、永遠の神の国を建設する救い主「メシア」を意味するようになります。 ローマの植民地として恐れと不安の暗い状態に置かれていたユダヤの人々は、旧約聖書に預言されたメシアの到来を 待ち望んでいました。ペテロは、ユダヤのヘロデ王でも、全ローマ帝国の皇帝カイザルでもなく、 ナザレの大工の息子であったイエスを「私の王」と告白しました。
 王とは支配者です。ペテロは政治的にはユダヤのヘロデ王とローマの支配下にありました。 住民登録をするから来なさい、と王から命令されれば、どんな事情があっても、病気をしていても無理をして出て行かなければ なりませんでした。またペテロは漁師でしたから、魚のとれ具合に左右される生活をしていました。 いつも、どうすれば魚がたくさん取れるかという思いに支配されていました。 そんなペテロが、今やイエスを「あなたは、キリストです」と、自分の支配者として告白したのです。

 あなたは何に支配されていますか?「私は誰からも、どんな考えからも自由だ。」と言える方がいるでしょうか?

 自分のことを話しますと、私の人生は、イエス様を自分の主として受け入れる前は、重く窮屈なものでした。見た目には、 そのようには全く見えなかったでしょう。私は二十歳までをフランスで過ごしました。それで、日本に 帰ってからは「恵まれた子供時代を過ごしたね。」と言われることがよくありました。 また、「大学も東大出で、格好いい恋人がいて、フランス語が話せて、 後は結婚だけだね。」なんて言われたりもしました。しかし、実際は、心の中 は、不安、心配、孤独で一杯だったのです。しかも、年を取れば取るほど、問題は解決され ていくどころか、増える一方だということに気づき、ますます恐れやあせりがつのっていました。 大学を卒業し、就職してからは、自分がただ惰性で会社生活をしていて、一体何のために人生を頑張れば 良いのかも見えず、力なく、虚しくて独りで泣くだけでした。
 私の生活が変わり始めたのは、聖書の御言葉に触れてからです。 エレミヤ29章11節「わたしはあなたが たのために立てている計画を良く知っているからだ。−主の御告げ。ーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画で あり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」という言葉で、 神様は私に、「私はあなたの将来に対する心配をわかっている。いつもともにいるよ。」と語ってくれました。 私はこの神様についていけば、自分の将来に平安と希望が与えられることを信じました。
 以前は、人の評価が怖くて、 人前では手が震えてバイオリンを弾くことができませんでした。しかし、5つのパンと2匹の魚を捧げる 信仰を学び、挑戦する勇気が湧いてきました。今では毎週、礼拝で用いられています。 また、ずっと子供のままでいたい、周りの人にちやほや されていたいと思っていた私が、今では、自分の足で立ち上がり、主の言葉を伝える勇気を持ちました。
 私は、イエス様を自分の主、自分の支配者として告白し、委ねたとき、この方が自分の 人生の傷を癒し、新しい道を示し、尽きることのない愛で祝福してくださる方であることを知ったのです。 不安定なこの世のものに心が支配されていたときには、私の心は不安に揺れ動くだけでした。 しかし、イエス様を自分の主、自分の王と告白するなら、この方は確かに私たちの人生を導いてくださいます。 イエス様を、どのような方として告白するかによって、人生の意味も目的も違ってくるのです。

 では、イエス様はどうやって私たちのキリストとなられたのでしょうか。31節をご覧下さい。「それから 、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長,律法学者に捨てられ、殺され、三日の後によみがえ らなければならないと弟子達に教え始められた。」
 イエス様が十字架の苦難の道を歩まなければならなかったのは、私た ちの罪と咎のためです。イエス様の苦しみに対して無関心だったイスラエルの兵士達、自分の立場が危う くなるのを恐れてイエス様を十字架刑に命じたピラト、死ぬことになってでも絶対についていくと言った にも関わらず、いざという時には裏切って逃げてしまった弟子達、彼らの姿は私たちの姿を映し出している のではないでしょうか。 イエス様は、私たちの無関心、弱さ、卑怯さ、失敗、恐れの全てを引き受けて十字架につけられたのです。 私たちの罪の責任を負って十字架につけられたのです。この十字架の道は、私たちを永遠の命、 復活の命へと導くための道でした。
 ところが、そんなイエス様の苦難の道に、ペテロはどういう反応をしましたか。「主よ、なんてことを 言うのですか!」ペテロは、自分のそれまでの生活を全て捨 ててイエス様についてきていた弟子でした。イエス様についていけば、メシヤの愛弟子として人 々から尊敬されるかもしないというような夢を持っていたのかもしれません。 そんな自分の将来が崩れるのを彼は恐れたのです。それを見抜いたイエス様は、ペテロをしかりつけまし た。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」いつもやさしくペテ ロを助け、守ってきたイエス様がこのような厳しい態度をとるのはめずらしいことです。ペテロ の人間的にみて一見あたり前のような態度は、十字架の御業を否定するものだったのです。イエス 様が地上に来られた目的を妨げるものだったのです。どんなに人間的には良いものでも、自分の思い・此の世の思いを 神様の御心よりも優先するとき、私たちは神様のみわざを邪魔するサタンの思いのままになってしまうのです。


U.イエス様についていく道(31-38)


 では、イエス様についていく人はどんな姿勢を持つのでしょうか。34節をご一緒に読んでみ ましょう。「それから、イエス様は群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでも、わ たしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。』」
 「だれでも、わたしについてきたいと思うなら」と書いてあります。つまり、誰であっても、どんな人で あっても、イエス様について行く資格がある、という意味です。罪の大小、清さ、能力、背景、経歴、性 格、一切関係ありません。誰であっても、イエス様について行くことができるのです。そして、そのような人は 自分を捨てるのです。「捨てる」と言うと、何か損をするように思われる かもしれません。しかし、イエス様についていくために、自分なりの道を捨てるということは、選択の問題 です。人々は、自分の時間、考え、生活、いのちを、誰にも捧げた くないと思うかもしれません。しかし、人は、自分の人生を会社、親、配偶者、あるいは国. ..何かにささげて生きています。お金からも、人からも、会社からも、環境からも全く 自由に生きている人は一人もいません。
 そして、何に自分のいのちをささげるべきかを考えることは、非常に大切なことです。 なぜなら、それは、自分の人生の最終目的地を決めることを意味するからです。 35節をご覧下さい。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」 。イエス様は人の生きる道を教えてくださいます。人のいのちはこの世の命のためだけに費やしてしま うにはもったいない大切なものなのです。 「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Tヨハネ2:17)。

 最後に38節で、イエス様はおっしゃっています。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたし のことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、 そのような人のことを恥じます。」イエス様は、私たちの頭の善し悪し、顔の善し悪し、性格や職業を見 て、判断される方ではないことが分かります。イエス様は、私たちの信仰をご覧になるのです。私たちの 内面が永遠の神様に向いているか、御言葉を喜ぶ心があるか、またイエス様を恥とせず、自分の主とし て信頼しているかご覧になるのです。


 イエス様は、私たちを罪から、傷から、悲しみから救うことのできる唯一の主です。そしてイエス様は、 人々の考えとは関係なく私たち個人の信仰に関心をもっている方です。世の人々が何と言おうと、周りの 友達が何と言おうと、私たちがイエス様を自分の救い主、キリストだと告白すれば、イエス様は私たちの 主となり、責任を持って私たちの人生を導き、治めてくださいます。罪の勢力、暗い思い、恐れや不安 から自由になり、永遠のいのちへの望みが与えられます。世の中には、ストレス解消のグッズや、心の病 に悩む人のためのカウンセリング、上手な世渡りのためのHow to本が出回っています。しかし、 私たちの人生の問題を、根本から理解し、助け、解決できる方は、イエス様だけです。イエス様を自分 の救い主、キリストとして告白し、イエス様についていく喜びにあふれる人生が歩めますように切に祈り ます。