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12ステップ 第5講

御言葉:創世記3:1−24



罪を犯した人間、しかし神様は…


「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との

間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(15)


eden


 神様は幸福の園エデンをお造りになり、 アダムを祝福されました。そこには一つの約束がありました。神様はアダムに 「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」 と仰せられたのです。 神様は人間をご自身の形につくられました。つまり人間に愛を与えました。 愛とは自ら選び取るものです。押し付けられて従うのは本当の愛ではありません。 愛とは決断して選択するものです。神様は人間に愛を与えたからこそ、人間に自ら選択して決断する機会を与えました。 それが善悪の知識の木の約束なのです。 しかし、人は初めの約束を忘れてゆきました。それはなぜなのでしょうか?


T.罪とは(1‐6)


 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」 ここで「狡猾」という言葉はもともとは「賢い、頭がいい」という意味です。 悪い意味ではありません。しかし、サタンは蛇のこのような特徴を人を惑わす道具としてしまったのです。

 ある日蛇は女に言いました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べて はならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 蛇は、女に神様の言葉に対する疑いを植え付けます。神様が愛の約束として与えられた御言葉なのに、 「どんな木からも」とか「ほんとうに」などという言葉によって、神様が理不尽な戒律を与えたかのような 印象を女に植え付けました。それでは女は何と答えましたか。

 2、3節をご覧ください。「私達は、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、 園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。 あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」この女の答えは初めの神様の言葉と どのように違いますか。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。しかし女は 「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。彼女の心には、すでに神様の祝福への感謝は失われていました。 神様の恵みをあたりまえのものと思うようになっていたのです。神様から多くの祝福と恵みを受けていることへの感謝を忘れ、 神様に栄光を帰することを忘れるとき、人は神様から離れてゆきます(ローマ1:21)。そして神様は「善悪の知識の木」 と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。 また神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」 と言いました。また、神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言いました。つまり「死ぬかもしれないし、 死なないかも知れない」と受け取りました。彼女はすでに、神様の御言葉を絶対的な基準として信頼できなくなっていました。

 女はサタンの狡猾な質問を受けて疑いの病気にかかりました。「あなたがたは、 園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」この質問は何と狡猾な質問 でしょうか。 この世には、神の愛を疑わせるような様々な事象が満ち溢れています。 サタンは私達の心のすき間を狙って攻撃して来るのです。神などいない…。人生に絶対的な目的なんてない…。 それでTペテロ5:8で使徒ペテロは言いました。「身を慎み、目をさましていなさい。 あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」 この世に生きる私達は自分の力でサタンと対決しようとすれば、必ず負けてしまいます。 だからこそ、神の言葉の内にとどまっていることが求められるのです…。

 女が神の御言葉への確信を失い「死ぬといけないからだ」と言うと、サタンは素早く女を偽りの言葉で誘いました。 4、5節をご覧ください。「あなたがたは決して死にません。あなたがたが それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを 神は知っているのです。」

 女は思いました。 「こんなに食べるのによく、目に慕わしく、 賢くするものを今まで食べなかったなんて。私がバカだったわ。私が騙されていたに違いないわ。 私も神の場所に行くのよ。私が全てをコントロールするのよ。」 女は善悪の知識の木を見ました。その木は、まことに食べるのによく、目に慕わしく、 賢くするというその木はいかにも好ましく見えました(6節)。そして彼女は食べます。一緒にいた夫にも与え、 夫も食べました。創造主である神様が「必ず死ぬ」と言われたその木から取って食べました。

 蛇の背後にいた存在はサタンです。サタンとは「敵対する者」という意味です。 サタンは全世界を惑わし、神様に敵対し、神様の御業を妨げるのです。また Uペテロ2:4では「罪を犯した御使い」と言っています。即ち、サタンは堕落した御使いの群れです。 サタンは御使いと本質的に同じ霊的存在です。私達の目には見えませんが、私達の考えと心を 動かす力と知恵を持つのです。私達の戦いは血肉に対するものではなく、この悪魔に対するものです。 この戦いで勝利するためには 神様のすべての武具が必要です(エペソ6:10‐18)。私たちは、自分の力で立ち向かおうとしても サタンの放つ火矢によって滅びへと導かれます。ですから私達は神様の御言葉に対する 絶対的な信頼を失ってはいけません。 イエス様も悪魔に試みられた時、神様の御言葉によって誘惑に打ち勝たれました。 イエス様はサタンの本性について次のように 言われました。「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。 彼が偽りを言う時は、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、 また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)。

 またここで一つ覚えなければならないことは、サタンの攻撃の目標はアダムだったということです。 サタンは先にアダムを攻撃するのではなく、女を誘惑しました。アダムが一番信頼し、 愛している妻を誘惑しました。神様もアダムが妻の言葉を聞いて神様の戒めを破ったことを 指摘されたのです(17a)。サタンは一番身近な人を通して働くことさえあるのです。イエス様が十字架に つけられることを言われた時、サタンはイエス様の一番愛するペテロを通して誘惑しました。 するとイエス様はペテロに向かって「下がれ。サタン。」と言われました。 私達は身近な人の言葉によって揺れ動くものです。 あなたはもし自分の考えと周りの人の考えが異なる場合、どちらを選択しますか? 実はどちらとも決めるべきではありません。 何よりも大切なのは神様に信頼をおくことだからです。 何が神様の御心にかなうことなのかを祈り求め、何よりも神様の御心にかなう選択をするべきなのです。


U.罪によって人間はどのように変わったのか(7‐13)

 それでは善悪の知識の木の実を食べた人間の内面にどんな変化が起こりましたか。

 第一に、肉の目が開かれました。7節をご覧ください。「このようにして、ふたりの目は開かれ、 それで彼らは自分達が裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分達の 腰のおおいを作った。」サタンは善悪の知識の木の実を食べると彼らの目が開かれ神のようになると 言いました(5)。しかし彼らは肉の目だけが開かれ、霊の目は暗くなりました。 彼らは自分達の裸の姿を恥ずかしく思うようになりました。 裸の自分、ありのままの自分を、主の御前にさらけ出すことができなくなりました。 サタンは経験主義の仮面をかぶって知者達を誘惑します。善も悪も経験して見なければわからないと主張します。 しかしサタンは人間のかなう相手ではないのです。一度、罪を犯せば私達の霊の目は閉じて二度と開かなくなります。 罪の世界に目が開かれ、最後にはサタンの奴隷になって行きます。ですから悪を経験して知ろうとしては いけません。ただただ御言葉に従う時に、私達の魂はきよめられ、霊的な目を開いていることができるのです (Tペテロ1:22)。

 第二に、存在意味を失うようになりました。8節をご覧ください。「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回 られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」 神である主の御顔を避けて身を隠したことは神様の御前で存在意味を失ったことを意味します。人は神様に非常に 喜ばれる存在として造られました。このような人が神様の御顔を避けて身を隠してしまったことはもす存在意味を 失ったことを意味します。また人は「なぜ生きるのか。何のために生きるのか。」という人生の方向や目的を 失ってさまよう人生になりました。

 第三に、恐れるようになりました。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。 それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」アダムがなぜ神様の御顔を避けて身を隠したのですか。 彼は恐れていたのです。その恐れは神様の御言葉に聞き従わなかった罪意識から生じたものです。また、 神様の裁きに対する恐れです。サタンは女を誘惑するとき、善悪の知識の木から取って食べると神様のように なると言いました。しかし神様のようになるところか、神様に対する恐れと羞恥心に捕われるようになりました。 罪を犯した人間はその羞恥を隠そうとします。それでいつも緊張しています。悪いことをする者は光を憎み、 その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ません。光よりも闇を愛するようになった からです(ヨハネ3:19、20)。そうです。サタンの誘惑に陥り、罪を犯すと死と神様の裁きに対する 恐れが生じます。今まで愛と恵みの神様として信じていた神様が恐れの対象になります。

 それでは神様は恐れて隠れているアダムをどのように助けてくださいましたか。9節をご覧ください。 「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」神様は隠れているアダムを 捜しておられました。「あなたは、どこにいるのか。」これは神様が、アダムがどこにいるのかわからなくて 言われた言葉ではありません。この御言葉はアダムが神様の呼びかけを聞いて自分が今どこにいるのか、 なぜ隠れているのかを悟り、悔い改めて神様に立ちかえることを待っておられる御声です。 それは失われた羊を見つけるまで捜すよい牧者の声です。「あなたは、どこにいるのか。」 神様の心は家を出た放蕩息子が帰って来るのを切なる心で待っている父の心です(ルカ15:20)。 神様はアダムが堕落したからといって見捨てられませんでした。神様は相変わらずアダムを愛しておられました。 ただ変わったのはアダムの心でした。羞恥心、存在意味の喪失、罪の意識、恐れ、不信、高ぶり、疑いなど、 このようなものがアダムの心に起こった変化です。そしてアダムは自ら神様から遠ざけました。 しかしアダムをお造りになって非常に喜ばれた神様はアダムを切なる心で捜しておられました。 神様は悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりひとりの罪人が悔い改めることをもっと喜ばれます (ルカ15:7)。

 しかしアダムはどう答えましたか。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。 それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。神様は悔い改めない人間を どのように問い詰めましたか。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。 あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」アダムが神様の御顔を避けて 身を隠したのは神様が食べてはならない、と命じておいた木から食べたからです。神様の聖なる命令を破り、 善悪の知識の木から取って食べたのは神様の創造主権を蔑視した罪であり、神様を神様として認めない高慢の罪です。

 しかしアダムは何と弁明しましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、 あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分の罪を悔い改めませんでした。 むしろ自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。人類最初の夫婦喧嘩が始まりました。この事件は何を 言ってくれますか。神様との関係性が壊れると人々との正しい関係性も壊れることを教えてくれます。そこで、 神である主は女に仰せられました。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」すると、女は答えました。 「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(13)。 女も蛇に責任を転嫁しました。


V.罪を犯した人に向けられた神様の愛(14‐24)


14‐24節は神様が蛇を呪われ、女とアダムを裁かれエデンの園から追い出す事件です。しかし裁かれる中でも 人間に対する神様の大きな救いの愛がよく示されています。

(1)救い主を約束された神様(14、15)

 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、 あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」 蛇は初めに造られた時にはあらゆる野の獣のうちで、一番知恵ある高等動物として造られました。それで人間と 一番近いところで今の犬のように人間に愛されていました。しかし今はすべての獣より呪われて一生、腹ばいで歩き、 ちりを食べなければならなくなりました。蛇はサタンの道具として用いられて一番惨めな存在に転落しました。

 それだけではありません。15節をご覧ください。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と 女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は 蛇に与える裁きの御言葉ですが、その後にあるサタンに対する神様の裁きの御言葉でもあります。神様は女の子孫から キリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。それでサタンに支配されている人々を 罪から救うことを約束されました。この御言葉はメシヤの誕生に関する最初の約束の御言葉です。 それで原始福音と言います。 神様はこの約束を真実に守られ、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから 生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。そしてアダム以来すべての人類が犯した罪を イエス様に負わせ、イエス様は身代わりとして十字架につけられ死なれました。そして死者の中から よみがえらせ罪と死の奴隷となっている私達を救って下さいました。神様の恵みを裏切り、 神様の御言葉に逆らっていた私達を救うために一人子さえ惜しまずこの世にお与えになった神様の大きな愛を賛美します。

(2)皮の衣を作り、着せてくださった神様(16‐21)

 女はどんな罰を受けるようになりましたか。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。 「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。 しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 それでは神様はアダムをどのように 裁かれましたか。17節をご覧ください。アダムの罪のゆえに土地が呪われてしまいました。彼は、一生、 苦しんで食を得るようになりました。18節を見ると土地は、いばらとあざみを生えさせました。 人は、顔に汗を流して糧を得なければならなくなりました。人は神様から与えられた聖なる使命を果たす 存在から食を得るために一生苦しむ存在に転落してしまいました。そればかりではありません。 19節をご覧ください「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」この御言葉は人類に下された死刑宣告です。 br>
 神様は人間をお裁きになった後、どんな愛を見せて下さいましたか。神である主は、アダムとその妻のために、 皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これは罪人に対する神様の愛の表現です。

(3)永遠のいのちへの望みを与えられた神様(22‐24)

 神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとり のようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、 永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから 取り出された土を耕すようになりました。こうして、神様は人を追放して、いのちの木への道を守るために、 エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれました。神様がいのちの木を残して守られたのは アダムに永遠のいのちへの望みを与えてくださったことです。罪人を相変わらず愛してくださる神様の 救いの愛を賛美します。

 結論:神様は罪を忌み嫌われ、裁かれます。しかし神様は罪を犯したのにも関わらず変らず人々をは 愛しておられます。ですから自分の罪のゆえに絶望したり、暗い人生を送ってはなりません。神様は罪を 犯して神様から離れている人々を捜しておられます。「あなたは、どこにいるのか。」この神様の御声を聞いて、 真実にあるがまま主の御前に出て行き、自分の罪を悔い改めると主はすべての罪を赦し、罪から救って下さいます。 堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を 賛美します。